この「石見地方と柿本人麻呂」シリーズは、少し間が開いてしまいました。
「石見地方(いわみちほう)」の「石見」とは、島根県西部地方の呼び方です。当時は「石見の国」と呼ばれていたのでしょう。
「柿本人麻呂」とは、「飛鳥時代の歌人であり、宮廷詩人。そして、「万葉集」に収められているなかでの最大歌人」と言われています。
その「柿本人麻呂」が、詠んだ歌で「石見相聞歌」など「石見」の名を使ったものが沢山あります。
そして、次の歌から「終焉の地」が、どこかということに繋がっていきます。
この歌は、「鴨山の岩を枕に 横たわり死のううとしている私を 何も知らずに妻は待ち続けているだろう」というような意味だそうです。
そこで「鴨山」が「終焉の地」だとして取り上げられている説があります。先に記した「石見地方」に、4箇所の「終焉の地」と言われる場所があります。
次の地図をご参照ください。
「柿本人麻呂」の「終焉の地」とされているのは、益田市、浜田市、江津市、美郷町です。
益田市の「県立万葉公園」を訪れ、柿本人麻呂 の歌が記してあったことから、歌の意味を検索してきましたが、次第に「終焉の地」、「出生の地」に興味が移ってきました。
今回、その中の1つであり、一度も訪れたことのなかった 美郷町 を尋ねてみました。
尋ねてみた感想は、齋藤茂吉 が、昭和12年に、この地の「鴨山」が、柿本人麻呂 が詠んだ歌の「鴨山」であり、「終焉の地」とされているのです。
そんな経緯からか、この 美郷町 では、「齋藤茂吉鴨山記念館」を創設されているように、「柿本人麻呂」というより「齋藤茂吉」を称えられているように思いました。
そんなことから、次のような疑問や興味が湧いてきました。
柿本人麻呂 が詠んだ歌の「鴨山」を記した歌が、どこで見つかったのか? 「鴨山」の地名でないところが、なぜ「終焉の地」とされているのか? 柿本人麻呂 は普段どこで暮らしていたのか? 妻とされる 衣羅娘子(よさのおとめ)は、どこに暮らし、柿本人麻呂 と一緒に暮らしていたのか?
それらのことを、今後、考えたり、検索していきたいと思います。